top of page

月刊 神戸っ子 Vol.500

秋田 博正 × キラン・S・セティ

「物質的な物より、先のビジョンをもつことが大切」

50周年へのステップヘ。大きく、高い、希望をもってほしい

神戸JC発足へその苦労と秘話

秋田 当時、神戸JCの立ち上げが遅れたのにはわけがあります。戦後すぐに、商工会議所やロータリークラブなど他団体の構成メンバーがみんな若返ったため、JCの存在意義があまりなかったのです。ところが神戸にJCがないのはおかしいからつくってほしいと、東京JCから大阪JCに依頼があったのです。そし

て大阪JCが私のところに説得に来たのですが、当時の神戸の状況もあり、私は自信がないと言って断ったのです。3度説得に来ましたが、3度とも断りましたね。大阪JCは東京から、秋田がキーマンだと言われていたらしいのです。東京JC発足メンバーに私の大学や海軍仲間が多かったため、会合にも何度か出席していたからでしょうね。しかし私がどうしても引き受けようとしないから、今度は私の先輩のところに話を持っていったのです。当時の乾汽杜長の乾豊彦さんに呼ぱれて、何でもいいから引き受けてくれと頼まれました。私も先輩に頼まれると断るに断りきれず、とりあえず引き受けたのです。その時点でメンバーは私ひとりだけだったのですけどね(笑)。当時はロータリークラブに在籍しでいたのですが、同じくメンバーだった柏木健一君に話をして一緒に手伝ってもらうことになりました。その頃の神戸の主な産業は、海運、ゴム、お酒などでした、海運は私の専門でしたから、ほかに白鶴の社長やバンドー化学の社長など、当時のリーダーにお願いして、それぞれのメンバーにふさわしい方を紹介してもらいました。それからひとり一人を訪問し、同志を集めていったのです。そして昭和33年仮発足、昭和34年正式に発足となりました。初代理事長認証式には、東京から日本JCのそうそうたる面々がみんな来てくれましたね。当時の私の考え方では、ほかのJCのやり方が甘いように思えたのです。そこで「質実剛健」というキーワードを決めたのです。我々は若いが甘ったるいことはやめよう、精神的には立派なことをやろうという思いだったのです。神戸JC創始の精神として「質実剛健」があったのです。そして神戸JCが力を入れるべきこととして、まずはトレーニング、そしてフレンドシップを掲げました。若いのだから自らを磨きつつ、同時に友情を育もうという思いでした。また、目指す方向として、経済問題に力を入れようと思いました。

キラン 日本JC設立当時の資料にも、秋田先輩の名前が度々登場すると聞きました。 そういう人が、神戸JCの創始者であることは、我々にとってとてもありがたいことだと思っています。経済と友情、交流のバランスは理事長の個性によって違いますが、基本の部分は設立時と同じだと思います。経済が主流になければならないという部分は、私も同感です。ですからもちろんタブーもありますが、個人的にはメンバー同士のビジネスの広がりがあってもいいと思っています。 そういった活動のなかでの、友情の部分は不変のものだと思います。

秋田 神戸JC発足後、理事長をつとめて以来、これまでの45年間、先輩後輩のいい関係がずっとつづいてきたように思います。神戸JCは代々の理事長さんをはじめ、会員の方みんなが素晴らしい。神戸JCの先輩後輩の仲は、大学の体育会系の先輩後輩の関係に似ているように思います。くつろいだ雰囲気のなかにも、礼儀正しさがある素晴らしい関係だと思います。この45年間、その流れで過ぎ去っていきました。いまや卒業生が1100人を超える大集団になりました。 あと神戸JCのいいところは派閥がないところですね。それとキランくんや尤くんなど、外国人の方が理事長になるところに、神戸JCの幅広さ、国際性が表れています。5年、10年、15年と、節目ごとに活動を振り返る機会に恵まれて来ました。その間、日本JCの大会、海外のイベント参加など、大きな出来事もありました。私はJCソングが大好きなのです。『若い我ら』のなかに、「若い我らが手をとりあて~JCの仲間はみんな信じあう」というくだりがあるのですが、JCの本質そのままだと、つくづく思いますね。いまでもふと『若い我ら』を口ずさむことがあります。すると若い頃の力が甦ってくるような気がするのですよ(笑)。

神戸から発信する日本一住みやすいまち

キラン 私はいつも神戸の住みやすさについて語っています。外国人が住みやすいということイコール、日本人も住みやすいということだと思います。このことを改めてアピールしていきたいのです。神戸はどこよりも住みやすいまちだと言いつづけたいですね。

秋田 震災の前の年、全国の政令都市の市長さんたちが集まって投票した結果、日本でいちばん住みやすいまちは神戸だという結果がでたのです。そこにあの阪神淡路大震災がきました。いま仮設間題などもやっと落ち着き、名実ともに日本一のまちだと言えるときだと思います。

キラン 私は鉄工のまちと言われたピッツバーグの大学院に通っていました。昔から叔父が住んでいるのですが、鉄工最盛期には、車の上に鉄の粉が積もるぐらい酷かったと聞いています。ところが私の学生時代には、アメリカでいちばん住みやすいまちと言われていました。当時、「みんなでピッツバーグをいちばん住みやすいまちにしよう」というテーマがあったらしいのです。自分たちが外に向かって言い切ることで、認められていくものだと思いましたね。住みやすいまちには人が集まります。そしてそこには各分野のプロフェッショナルも集まり、自然に産業も活気づいていくものだと思っています。暮らしやすさと活気、そのバランスが大切ですね。

秋田 神戸には「融」のある住みやすさが似合うのですよ。

50年のステップへ神戸JC発足45周年

秋田 いまの若い人に言いたいことがあるとすれば、まずビジョンを持ちなさいと言うことです。そして「自分はこうなれる」という希望を持つことです。大きく、高くを望んでほしいですね。ステップバイステップで上を目指すプロセスそのものに意義があるのです。夢とはロマンと希望の2種類がありますが、希望の方をもっと高く持ってほしいのです。そしてもっと自信を持ってほしい。白分に自信がないから、迷いが出てくるのです。

キラン 大学時代の教授の話でいちばん憶えている内容は、いま秋田先輩が仰ったこととまったく同じでしたね。当時はよく意味が分からなかったのですが(笑)。物質的ではない、先のビジョンを持つことが大切なのだと思います。消化しにくい話ですが、何度も聞いているとわかってくるはずです。最後にお聞きしたいのですが、秋田先輩の神戸JC50周年に向けての希望と夢は何ですか?

秋田 私の代からずっと継続してきた延長線上に50周年があります。神戸JCも成長してきましたが、根元的には変わりのない連続であり、集大成として振り返るための50周年であればいいと思っています。綿々とつづいてきた50年を振り返りつつ、次の50年を考える機会になればと思っています。

キラン 50周年では私も卒業しています。来年は神戸JC45周年です。40周年と50周年の中間点として、節目の大切な年を盛り上げていきたいと思っています。

秋田 50周年を見据えての45周年ですから。過去を振り返りながらも、50年目へのステップとなる基礎をつくっていかなければならないでしょうね。35周年の頃から、杖をつかんでいましたが、50周年記念の乾杯の音頭をとらせてもらうのが夢でした(笑)。長く元気でいると、後輩たちのサンプルにもなりますからね(笑)。

キラン・S・セティ ピッツパーグ大学経営学修士修得。 (株)ジュピターインターナショナルコーポレーション取締役専務。 2003年度、(社)神戸青年会議所第45代理事長。

秋田 博正 1919年生まれ。1958年、 初代理事長。現在、正興産業(株)取締役社長。

Featured Posts
Publications 著書・共著書

キラン・セティ 初著書


「驚異の超大国 インドの真実」
インド人だからわかる!
ビジネスの将来性と日本人の大誤解

購入はこちらから

「ビジョナリー・マーケティング 

Think Differentな会社たち」

共著 キラン・S・セティ

購入はこちらから
Archive
bottom of page